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2021.03.11(木)小笠原満男さんインタビュー - 東日本大震災から10年「一人でも多くの命を救えるように」


東日本大震災から10年が経過した。あの悲惨な出来事は大きな悲しみを残したが、同時にサッカー界をまとめる一つの契機を与えてくれた。小笠原満男の呼びかけに多くの選手が賛同し、その後の災害が起きた際にも、サッカー界としていち早くアクションが取れるようになったことは、少なくない前進と言えるだろう。

10年が経過したいまも小笠原は震災を風化させない活動を続けている。

「一人でも多くの命を救えるように」

その切なる想いを改めて聞いた。



――東日本大震災が起きた2011年3月11日から10年が過ぎようとしています。

最初のうちはなかなか時間が進まなかったですけど、10年経ったいま感じるのは、思うように復興が進んでいないということです。この年末は、コロナの影響もあって初めて地元に帰ることができませんでした。1年以上東北の様子は自分の目で見ていないので復興がさらに進んだ部分があるのかもしれません。一つ言えるのは10年というのは10周年という記念日みたいなものではない。10年経っても思うように復興が進んでいないのは残念なところです。特に陸前高田であったり南三陸であったり、まだまだとてもじゃないけど復興したとはいえない地域があるのが現状だと思います。

――震災当時、文字通り朝から晩までクラブハウスで作業されていた姿が思い浮かびます。当時をどう振り返りますか?

人のためになにか役に立ちたいという思いと、一人でできることの限界を痛感したのと、あとは助けてくれる人のありがたみをすごく感じました。選手会もそうですし、サッカー協会、Jリーグ、アントラーズの関係者、地元の方々にもたくさん助けてもらいました。一人ではできなかったものが、まわりの人に協力してもらうことで実現できた部分はとても多かったのですが、それでも復興のために必要なことは微々たるものでしかなかったです。困っている人、全員に手を差し伸べることができたわけではなかった。ただ、サッカー界だからこそできたことも数多くあったと思います。震災をきっかけに色々なつながりができたことはマイナス面ばかりではなかったですね。自分たちの活動を支えてくれる人がいたり、他のチームでも気にかけてくれる選手がいたり、いままでなかった繋がりができたことはよかったと思います。

――Jリーグが再開されると対戦相手のチームが義援金を集めて渡してくれるなど、震災という辛い出来事がサッカー界を一つにまとめるいい事例になったように見えました。

過去の事例を詳しく知っているわけではありませんけど、東日本大震災以降も熊本の地震であったり、各地でいろいろな自然災害が起きました。そのときに「この間はうちが助けてもらったから、今度はうちが助けるよ」というようないい関係性が築けた気がします。鹿島でも東日本大震災で助けてもらった分、熊本地震の時に植田選手を中心にアントラーズの選手たちが動いて支援を行ったり、お互いが困ったときに助け合う関係性ができたのはサッカーの良さだと思いますね。

――支援活動を始めたときはなにから手をつければいいのかわからないくらいの状況だったと思います。最初は苦労の連続だったのではないですか?

みんなが協力してくれるんですけど、協力してくれればくれるほど支援物資を詰めるダンボールの数が増えて大変でした。それで試合に負ければ「止めた方がいいんじゃない」と言われたり、ただ物資を送れば地元には喜んでもらえる。そういう葛藤がずっとありましたね。そういう声も勝てばみんなが喜んでくれると自分のモチベーションに変えてやっていました。ただ、自分は悪いことをしていたわけではないという信念を持っていました。困っている人がいれば手を差し伸べて喜んでもらうべきだと思っていたので、地元への恩返しという気持ちでやっていました。

――「サッカー選手ならサッカーに集中するべきだ」という声は少なからずあったと思います。

ありましたね。試合で負けた後にイベントへ行けば「来て大丈夫ですか?」「練習しなくていいんですか?」と言われていました。でも、試合に勝ってそういう場所に行けば「おめでとう」と言ってもらえる。それを逆にモチベーションにしていました。とはいえ、震災にかかわらず負ければ叩かれるのはサッカー選手の宿命でもあるので、そこに対するスタンスは普段と変わりませんでした。

――震災が起きたときはJリーグも中断され、サッカー自体が止まってしまいました。プロになって初めての経験だと思います。サッカーが置かれている立場を改めて考えさせられたのではないですか?

昔っからサッカーボールが一つあればどこでもできるのがサッカーの良さだ、という話をずっと聞かされてきました。でも、あのときボールがあってもサッカーができないんだ、ということをまず思いました。特にアントラーズの地元でもガソリンスタンドにガソリンがなくなったり、コンビニやスーパーから食べ物がなくなっていき、電気や水道、ガスが止まっている地域もあって活動ができなくなりました。また東北の方ではとてもじゃないけどサッカーができるような状況じゃなかったし、サッカーができない状況が実際にあるということを初めて経験しました。

――震災直後、スポーツはどうあるべきだと感じていましたか?

震災直後は「やるべきではない」と確実に思いました。まず命を守ること、困っている人を助けるのが最優先だし、“サッカーで元気づける”という姿勢は綺麗事な気がしました。目の前に生きるか死ぬかの人がいるのに、サッカーで元気をつけるというのはなにか違和感がありました。飲料水が入ったペットボトルを一つ渡せば喜んでいる人がいて、おにぎり一つでも喜んでくれる人がいる状況で、「自分はサッカーを頑張ります」という姿勢は違うような気がしましたね。まずは人命救助を最優先すべきだと自分は思いました。

――震災の映像もそうですけど、その後に起きた津波の映像を見てしまうとスポーツをやっている場合ではないということはよくわかります。

最近、ニュースでも震災のことが多く取り上げられていますし、あの映像を見るたびに胸が痛くなるんですけど、決して目を背けちゃいけないし、いつかまた起きるだろうと想定しておくことが大事だと思います。

自分も地元を襲った津波の映像は結構見ていますし、それを主催したサッカー大会に集まった子どもたちに見せたり、アントラーズや関東から遠征で来ている津波を知らない子たちに見せたりしています。「みんなにもこういうことが起きるかもしれないよ」と伝えています。特に、岩手の大槌町で間一髪で助かった人の映像であったり、南三陸町の映像であったり、少しでも高いところに逃げることで助かる命があることを知って欲しい。

いまの小学生だと6年生で12歳。10年前の記憶はほとんど残ってないと思いますし、中学生でぎりぎり覚えているかどうかだと思う。小学生だとピンとこないと思うので怖がらせたくはないのですけど、いつか起きるかもしれない現実であること、地震が起き、津波が来るときは少しでも高いところに早く逃げる意識を持ってもらうために、あえて見てもらっています。


――ただ、新型コロナウイルスの影響で、なかなか現地を訪れることも難しくなってしまいました。

そうですね。サッカーが自由にできない、いまの状況が10年前の当時とちょっと似ているところもあるんですけど、コロナが落ち着いたら東北各地にできた震災の遺構を訪れて欲しいと思います。陸前高田に津波が来て半壊した建物がそのまま残っていたり、岩手県宮古市には「たろう観光ホテル」という津波の怖さを伝える建物が残っています。宮城県の荒浜小学校もそうした遺構の一つです。ぜひそういうところを訪れて、津波の怖さを感じてきてほしいと思います。他にも陸前高田には「いわて TSUNAMI(つなみ)メモリアル」という東日本震災遺構伝承館、気仙沼にも気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館があります。震災時にどんなことが起きたのかを伝える建物ができているので、ぜひ多くの人に訪れて欲しいと思います。日本各地で南海トラフや関東大震災のような直下型地震がいつか起きると言われていると思います。いざ、そういうことが起きたときにどうすべきなのかをそういう施設を訪れて学んでおいて欲しいと思います。

――現在も東北人魂の支援活動を継続されていると思います。今後の支援はどのような形で考えていますか?

家が流された子どもたちは、ボールもスパイクも一緒に流されてしまい、最初はそうした物資を届けるところから始めました。少し落ち着いたあたりから東北出身のJリーガーで東北人魂を立ち上げて子どもたちとの触れ合い活動を続けてきました。去年もやったんですけど主催の小中学生の大会はずっと続けて開催しています。今年はコロナでできなかったのですが、大船渡でも毎年のように開催してきました。またアントラーズで同僚だった遠藤康も彼の地元の宮城県で大会を開いています。茨城県の波崎では中学生の大会を続けてきました。そういう大会はこれからも続けていきたいです。サッカーの試合をしながら、それと同時に震災のことも知ってもらう機会を設けていきたいと思っています。

――子どもたちの反応はいかがですか?

最初の頃は子どもたちにも「無理して見なくていいよ」と言っていたので、震災の映像が流れると席を立つ子もいました。でも、逆に最近はなにが起きたのか映像をじっと見ていると思います。「津波の映像を見たことあります」という子もいますし、そうやって啓発活動をするだけで助かる命があると思っています。津波が起きたときに多くの子どもたちが亡くなりましたけど、岩手の釜石市では約2,900人いた小中学生のほとんどの子が助かったと聞きました。「津波てんでんこ」という標語があって、地震があったら家族のことは気にせず、ちりぢりになってもいいからすぐに高台に逃げるということが徹底されていたそうです。避難訓練も繰り返しやってきたことで多くの児童が助かった町もあるので、そのちょっとしたことで生死が分かれる。これまでのことを語り継ぐことで、少しでも多くの命が助かる方に導いてあげる作業が大切なのではないかと思います。

――風化させないためにも、そうやって語り継ぐことが大切ですね。

あのとき、津波が2回あったことは知っていますか?2回目があったことが意外と知られていないんです。1回津波が来て、水が引いたと思って家に忘れ物を取りに行ったり家族を探しに行ったりした人たちがいて、第2波でもっと大きな津波が来て亡くなった人もいる。それを知っているだけでも助かる可能性が増えるかもしれない。熊本の地震も2回目があった。それを知っているだけで行動は変わってくると思う。それを知ってもらう作業はとても大事だと思います。

――先ほどいまのコロナで生活が制限されている状況が10年前に少し似ているかもしれない、という言葉があったと思います。この状況だからこそ、サッカーをやっている人ができることはありますか?

緊急事態宣言が出ていることでチームとして活動できないところもあるかもしれません。それによっていままでと同じ活動はできなくなっているかもしれないですけど、逆にいまこういう状況だからこそ、やるべきことを整理できている選手は伸びていくと思います。自分だったらチャンスだと思う。サッカーができないからといってダラダラした生活をして食生活が乱れたり、サッカーのトレーニングを怠る選手と、逆に「いまは他の人と差をつけるチャンス」と捉えて頑張る選手だと少し先に待っている姿は全然違うものになるのではないでしょうか。そういう意味で個人の姿勢がすごく問われる大事な時期だと思います。

いま指導者がすごく知識をつけて選手に色々教えてくれる時代になりました。でも、サッカーの根本は、自分で学んで、自分で考えて、自分で成長して、自分で伸びていくというのは変わらないと思う。いまこういう時期だからこそ、自分と向き合うことで必要なトレーニングに取り組めるし、長所を伸ばしたり弱点を補うことを自分で考えて取り組める子は必ず伸びていく。いまこそ人と差をつけるチャンスだと思いますね。

それは、W杯に出たり、海外に移籍したりする選手と話していても感じることです。彼らに共通しているのは全員が全員、見えないところで一人で練習、努力してきたこと。チームの練習だけが練習ではなく、シュートを外せば家に帰ってから公園に行ってシュート練習をしたり、ドリブルがうまくいかなければドリブルの練習をしてきた選手。パスがうまくいかなければ壁に向かって蹴る、止めるを繰り返してきた。あそこまで上り詰める選手、W杯に出るような選手は、やっぱり人よりもそうした努力をやってきていた。「そこで差がつくよ」とは指導している子どもたちにも話しています。

――昨年は指導しているアントラーズユースが所属するプリンスリーグの昇降格もなくなってしまいました。下部組織の子たちにはそうした話をされたのですか?

昇降格が無くなってしまって状況としてはかわいそうだったんですけど、中村幸聖前監督(現監督は柳沢敦氏)も学校が休校になった際に「逆に成長するチャンスだよ」と子どもたちに話していました。自主練習の時間を多く取り入れたり、自分たちでメニューを考えさせたり、ポジション別の練習も選手たちになんの練習をするのか考えさせたりして、アントラーズとしては非常に有意義な時間を過ごすことができたと思います。自分たちの試合を自分たちで分析させて、どんな練習をしないといけないのか出させたりして、こういう状況だからこそうまく時間を使うことができました。

――どんな状況だとしてもやれることはあるということですね。

そうですね、ピンチはチャンスだと思う。発想を変えればアイデアは出てくると思うし、新しいことをする絶好の機会でもある。いまだからこそできることはあると思います。

――現在はコロナ禍の状況ですが、幸いなことにJリーグは開催できています。

Jリーグのチームが仙台や山形、盛岡で試合をしたあと、津波伝承館にチームとして案内できたらいいですね。そういうところへ選手に行ってもらうことで、語り部の方が実際に体験したことを伝えてくれるので、じかに見て感じてもらえることがきっとあると思います。



これまで日本プロサッカー選手会では、陸前高田で継続的に支援活動を続けている川崎フロンターレのサポートを行ったり、宮城県で活動を行う名古屋グランパス、大宮アルディージャ、福島県で活動を行う横浜FCの復興支援活動をサポートしたりしてきた。

選手会として復興支援のためのチャリティーオークションに出品してもらえるグッズを集めている際、多賀城市出身のヴィッセル神戸の郷家友太選手から「ユアテックスタジアムでの試合を見ました」という声や、釜石市出身の菊池流帆選手も「Jリーグの選手がやってくれたサッカー教室に行って、プロになることを諦めずにすんだ」という話もあった。20代の選手が当時の支援活動を覚えてくれていた。

支援の成果はなかなか目に見えづらいものではあるが、そうした嬉しい声も少なからず聞くことができている。コロナの状況が落ち着いたら、今後もJリーガーや引退した選手によるサッカー教室などの活動を継続していきたい。

インタビュアー:田中滋(スポーツライター)

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